篠塚 和典(しのづか かずのり、1957年7月16日 - )は、東京都豊島区生まれ、千葉県銚子市育ちの元プロ野球選手(内野手、右投左打)・コーチ。1992年6月29日までの登録名は篠塚 利夫(しのづか としお)。翌30日から「和典」という名前にした。本人によると、「知り合いの内気功の先生から勧められた」とのこと。
27キロバイト (3,694 語) - 2020年5月19日 (火) 20:53



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1 砂漠のマスカレード ★ :2020/05/30(土) 13:10:01 ID:ljmYj1x79.net

ダブルプレーを取るための攻め「守っていて楽しい投手」

読売巨人軍史上屈指の好打者で通算1696安打を放ち、守備でも名二塁手として鳴らした篠塚和典氏(1992年途中までの登録名は篠塚利夫)。
Full-Countでは、篠塚氏が現役時代にと
もに戦った名投手たちを振り返る「篠塚和典 背中を見てきた投手たち」を連載中。
今回は、巨人の2枚看板として同僚の“怪物”江川卓氏に強烈なライバル心を抱き続けた、西本聖氏について語る。

西本氏といえば、切れ味鋭いシュートが武器で、特に右打者の内角に食い込むそれは威力十分。1983年の日本シリーズ第2戦に先発し、西武打線を4安打完封、27アウトのうち21を内野ゴロで取ったのは今も語り草だ。この試合でも二塁を守っていた篠塚氏は、「当時はセカンドのポジションからでわかりづらかったけれど、いまテレビで昔の映像を見ると、『うわっ、よく曲がってるなあ』と驚きますよ。特に(西武の主砲の)田淵幸一さんが嫌がっていた。『これは、右打者は嫌がるわ』と思います」と嘆息する。

 その後西本氏は1989年にトレードで中日に移籍し、巨人戦で篠塚氏とも対戦している。「それまで同じチームでやっていた選手だからやりづらい、というのもあったけれど、西本さんは僕のような左打者に対しても、意外にインコースにシュートを投げてきたんですよ。膝の上に自打球を当てたことを覚えています。僕はあまり自打球を当てたことがなかったんですけどね」と篠塚氏は苦笑する。抜群のバットコントロールを誇った天才打者が珍しく自打球を当てたほど、西本氏のシュートは鋭かった。しかも篠塚氏は「巨人時代はもっと曲がっていたと思う」と言うのだから、おそるべしだ。

「ランナー一塁の場合、守っている内野手はダブルプレーを取りたいという意識が強いのですが、西本さんはダブルプレーを取るための攻め(配球)をして、そのためのボールを投げていると感じました。
こっちの思い通り内野ゴロを打たせてくれるケースが多かったです。
コントロールが良く、このコースに行けば打球はこっちにくる、と計算しながら楽しく守れました」と振り返る。

交互に4回ずつ務めた開幕投手、ライバル関係は「チームにすごく良い結果をもたらした」
 西本氏は1歳上の江川氏に強いライバル心を抱き、壮絶なつばぜり合いを演じた。愛媛・松山商高時代は甲子園に出られず、1975年にドラフト外で巨人入りし、2軍から這い上がった西本氏。対照的に、江川氏は栃木・作新学院高時代から甲子園で活躍して“怪物”の異名を取り、法大時代も東京六大学のスター、紆余曲折を経て79年に巨人入りした。篠塚氏は「西本さんが江川さんにライバル心を燃やし、江川さんも西本さんを意識していることは、われわれ野手も感じていました。それがチームにすごく良い結果をもたらしたと思います」と証言する。

 2人は開幕投手を、1980年・江川、81年・西本、82年・江川、83年・西本、84年・江川、85年・西本、86年・江川、87年・西本と交互に4回ずつ務めた。結局西本氏は、江川氏が現役だった9年間、1度も江川氏を上回る勝ち星を挙げることはできず、84年に15勝で並んだだけ。81年には、20勝・防御率2.29で2冠に輝いた江川氏でなく、18勝・2.58の西本氏が沢村賞に選出され、物議を醸した

5/30(土) 11:31 Yahoo!ニュース
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